*SAKULIFE*

音楽と桜とミルクティーが好きな社会人が、日々の想い出やお気に入りをしまっておく宝箱。

「たゆたえども沈まず」

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「たゆたえども沈まず」

 

原田マハさんの「たゆたえども沈まず」を読みました。

担当先へ向かう道中、立ち寄った書店で目を奪われてしまった作品です。
ゴッホの「星月夜」、そして北川景子さん。

わたしが好きな要素が詰まっている………。

ここ数年は本をあまり読まないうえ、読むときも1度しか読まないので、本を買うことがあまりないわたしですが、出合い方が楽しくてつい買ってしまいました。

しかし、買ったのはなんと去年の10月。
3ヵ月も読まないまま寝かせてしまいました…。

子どもの頃は図書館で借りた8冊をその日のうちに読み切ってしまう子どもだっただけに、人としての劣化が激しく悲しくなります…。

今回読もう!と決めたのも、近頃緊急事態宣言の影響で早帰りが可能となり、夜家にいる時間が増え、時間を持て余しているので、本でも読もうかな、と思ったからです。

先日北川景子さん主演の「ファーストラヴ」の文庫本を買いかけて、(ここでも出てくる景子さま)(もはやこれは大ファンなのではないか)
「先に『たゆたえども沈まず』を読もう!」
と思い、無事読了しました。

完全に“ジャケ買い”だったので、てっきり、ゴッホの「星月夜」に魅了された人びとのお話なのかと勝手に思っていたら、架空の人物を主軸に、ゴッホとその弟・テオの生き様を描いた“史実を元にしたフィクション”で大変驚きました。

しかも、“史実を元にしたフィクション”である、というのは読み終わって解説を読んで初めて知ったことだったので、読んでいる最中は「何が史実で、何が史実でないのか」が全く分からず、
「史実でないかもしれないから、あまり感情移入しすぎてしまったらだめだ」
と、入り込まないよう心に壁を作りながら読んでいってしまいました。

ゴッホは、アムステルダムに行ったときには体調不良でゴッホ美術館にこそ行けなかったのですが、過去2回日本で巡回していたゴッホ展に行っていることもあり、その半生についてはうっすらながら知識がありました。

特に一昨年に訪れたゴッホ展は、テオとの手紙を軸に構成された展覧会だったので、テオを頼ってパリで暮らしていたパリ時代をメインに展開するこの作品との親和性も非常に高かったように思います。

ゴッホ展に行かれた方にはとてもおすすめの作品です。

その半生を知っているだけに、アルルに行けばゴーギャンとの確執があり耳切り事件が起きることや、その最期も知ってしまっているので、読み進める間も気持ちは暗いままです。

どこまでがフィクションなのか分かりませんが、ゴッホゴッホは名字なので、以下、フィンセントと呼びます)を経済的にも支え続けた弟のテオを想うと、とても心が苦しくなります。

わたしたちは、フィンセントが後世に名を残す画家だと知っているから、泣かず飛ばずのフィンセントの姿を見ても、
「後に世界的に有名になるのだから」
と思うことができます。

しかし、兄の才能を確信しながらも、なかなか芽が出ない兄に、自らが汗水垂らして働いたお金で経済的援助を続けるテオの苦しさを思うと、言葉になりません。
読みながら、テオにこの未来を見せることができたなら、と何度思ったことか。

わたしがテオなら、いくら兄の才能を確信していても、画材用にと渡したお金をお酒に使ってしまうような兄のことは、早々に見放してしまうと思います。

しかしテオは、決してフィンセントを見放しません。

それどころか、生涯の伴侶と出会い幸せの絶頂にいる中でも、兄に対して後ろめたい想いを抱えます。

テオが、林忠正に連れられマダム・ボナパルトのサロンを訪れた帰り道。
「兄が田舎のあばら屋で、飲まず食わずで必死に絵を描いているのに、なぜ僕はあんなに豪華な食事や酒を味わっているのか」と、後悔の念に苛まれるシーンがあります。
テオは言います。

「罪深い……僕は、なんて罪深いことをしてしまったんだ……!」

なぜそうなる……!と思わずにおれません……。

このシーンを読んで、テオの心情が、共感しきれない領域に達しているのを感じ、テオに感情移入するのをやめてしまいました……。もう、わたしにはテオがわからない……わからないよ……

ただ、わからないなりに、きっと、テオとフィンセントは、兄弟でありながら一心同体だったんだろうな、と想像はできます。

テオにとってフィンセントは愛する兄であり、自分にはない才能を持った憧れの存在だったのだろうと。

フィンセントにとって、自身の才能を認め、守ってくれた弟がいたことは、大きな幸運だったと思います。
テオがいなければ、数々の作品が世に広く知られることはなかったでしょう。

しかし、テオにとっては…。どうだったんでしょう。
フィンセントがきちんと家長としての務めを果たしていれば、テオがひとりで家族を養うことも、フィンセントへの援助もなかったはずです。
平凡かもしれないけれど、もっと幸せな人生を送れていたのではないでしょうか。

わたしは自分自身もサラリーマンなので、
「テオは自分で働いた稼ぎでフィンセントに援助をしていた」
「にもかかわらず、フィンセントはそのお金を酒に使い果たしていた」
という部分が引っかかって、フィンセントを許せなくなってしまっているのだと思います。

きっとゴッホの家庭が裕福で、裕福な実家の援助の下で描き続けていたなら、こんな気持ちにはなりませんでした。

でもきっと、こんな風に才能はあっても人間性がだめな天才アーティストは、フィンセントに限らずたくさんいるのでしょうね。
そして、そういったアーティストの中には、近しい周りの人たちに甘えて生きている人も少なくないはずです。

わたしのような一般市民は、アーティストの周りの人々の献身的な支えを踏み台にして、生み出された芸術を搾取し、消費しているのかなぁ、と考えてしまいました。

せめてこれから、フィンセント・ファン・ゴッホの作品を観るときは、彼の才能を信じ支え続けた弟テオの存在を感じながら、作品を鑑賞したいと思いました。

原田マハさんの他の作品も読んでみたいな、と、昨日書店に足を運んだら、どれもこれも読みたくなってしまってひとりあわあわしてしまったので、まずは図書館に行ってみようと思います。

そして、「ジヴェルニーの食卓」は、買おうと思います。