鉄塔を見るといつも、昔、家を探しているときに、父が
「鉄塔の近くは電磁波があるからやめておく」
と言っていたことを思い出す。
今日の空はどこまでも青くて、鉄塔の白さがひときわ際立って美しかった。
そこからのびる電線は、空色の紙に几帳面に引いたボールペンの線のよう。
まっさらな五線譜っぽい。
こんな風に、自転車に乗っている時に、美しい景色が目に留まると、つい自転車をとめてスマホのカメラのシャッターを切ってしまう。
今日みたいな青空はいい。
比較的長時間、そのままの姿で頭上にいてくれるから。
でも、夕焼け空なんかは逃げ足が早いので、みるみるうちに色が変わっていってしまう。(変わりゆく色もそれぞれに美しいのだけれど)
だから、もう目に留まったらすぐにシャッターを切らないといけないのだ。
夕暮れ時に自転車に乗っていると、ちょっと乗っては撮り、ちょっと乗っては撮り、を繰り返すことになる。
周りから見ると、おそらくとてもあやしい。
でも、撮らずにはいられないのだ。
刻一刻と変わる景色を残したくてスマホのシャッターを切る度に、積みわらや睡蓮の連作を描き残したモネを思い出す。
モネは、季節や時間によって変わる瞬間瞬間をとらえようと、同じ場所の連作をいくつも描いた。
昔は見分けがつかなくて(正直今でもついていない)、なぜこんなにも同じものを描き続けるのかあまり意味が分かっていなかったけれど、最近はその気持ちがとてもよく分かる。
モネは、移ろいゆく瞬間瞬間の美や光を描き留めておきたかったのだと。
同じ土壌にあげるのはおこがましいが、わたしが、はっと目に留まった景色をスマホで何枚も収めようとするのと、本質的に気持ちはきっと変わらないのだと思う。
わたしは、目に留まった美しさを、インスタントに残せる時代に生まれてよかったなぁと思う。
カメラがここまで普及していなかった時代。
瞬間瞬間の美しさを描き留めるのは、とてつもない集中力で、モネが自然を見つめた証拠だと思う。
美しい景色が目に留まる度、モネの生きた時代も、こんな風に、見上げれば、刻一刻とその色を変えゆく空があったのだろうなぁ、と、同じモチーフを描き続けたモネの心情を想ってしまう。
♪
近頃はアナログな趣味を放置していて、ポスカホリックも止まっていたけれど、昨日一気に貼りきった。
2020年は、モネの「睡蓮の池」を2作品観た年になった。
ナショナルギャラリー。
画角、ほぼ同じ。
でも、それぞれに美しい。
時は流れ、時代は変わるけれど、“美しさ”という概念の中には、今も昔も変わらない芯の部分が在り続けるのだと思う。
なんだか不思議だけど、尊い。