*SAKULIFE*

音楽と桜とミルクティーが好きな社会人が、日々の想い出やお気に入りをしまっておく宝箱。

「ファーストラヴ」


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公開初日の「ファーストラヴ」。
先日原作を読んだばかりなので、原作の流れを照らし合わせるような形で鑑賞することになりました。
 
原作が説明不足に感じる点や、登場人物が救われずに終わって気になっている点があったりしたので、映画オリジナルの要素が加わっているのだろうな、と思っていました。
映画オリジナルの解釈や、構成の変更はどれも納得がいくものばかりでした。
 
むしろ、映画の変更の方が原作よりもしっくり来る部分も多くて、原作者の方よりも映画の製作サイドの方がわたしは気が合いそうだな、と思ってしまいました。(何様やねんですみません)
 
舞台挨拶も観られてうれしかったです。
北川景子さま、とても美しかったです。
 
芳根京子ちゃんは、北川景子さまを「景ちゃん」と呼ぶ中村倫也がうらやましくて「景さん」と呼んでいるそうです。
かわいい。

  
以下ネタバレです。

 

 

 

原作と映画の違い

 
わたしは原作が合わなかったのか、原作よりも映画の描写の方が、すっと受け入れられるものが全体的に多かったです。
 

ラストシーン

 
特に原作のラストシーンが、作中特にキーパーソンではない人物の結婚式なのも構成上しかたないのはわかるのですが疑問で、しかも、その場で主人公の由紀に秘密を打ち明けられた夫の我聞が、
「やっと由紀を独り占めできるよ」
と言うのですが、どうにもこの台詞がしっくり来なくて。
最後のページに出てくる台詞なんですけど。
 
それが、映画では我聞に秘密を打ち明けるシーンを裁判前に回して(そのためにすごくご都合主義の交通事故が起きるのですがしかたないと思った)、ラストシーンは我聞の個展に置き換わっているのですが、我聞の個展は劇中でも重要なシーンとして描かれているので、こちらの方がラストシーンにふさわしいな、と思ってしまいました。
 
また、最後の会話も由紀と我聞ではなく、由紀と迦葉に変わっていて、「独り占めできるよ」という台詞は迦葉の「やっと家族になれるよ」という台詞に変わっていました。
絶対に原作よりもこっちの方がいいと思ってしまいました。
 

迦葉が由紀を抱けなかった理由

 
原作では迦葉が由紀を抱けなかった理由を、由紀自身が
「わたしがお母さんに似ていたんじゃない?」
と言うのですが、映画では迦葉の他の女性のタイプが肉感のある女性、という伏線がないために迦葉自身が気づきとして由紀に打ち明けます。
こういう気づきもあるんだな、と思いました。
 

環菜のファーストラヴとは

 
また、原作の環菜は、どれだけ過去を遡っても実像のないからっぽな愛の記憶しかなく、救いがありませんでした。映画では、ゆうじくんが法廷に立って証言してくれたことで、環菜にとってとても大きな救いになったと思います。
環菜がゆうじくんに再会できてよかったな、と思いました。場所が法廷、というのは悲しすぎますが…。
ゆうじくんを見つめる芳根京子ちゃんの表情の演技もすごくよかったです。
 
原作で読む環菜は、もう少し穏やかなトーンだと思っていたのですが、映画の環菜はとても不安定でした。いや、不安定とはたしかに原作にも書いてありました。しかし普通に話しているときは普通の子なんだと思っていました。
わたしがやわらかく読みすぎていたんだなぁと思いました。
環菜と由紀の接見のシーンは、映画だと、公認心理師である由紀が、会話の中でプロとして考えていることが表情でしかわからないので、映画で表現する難しさを感じました。
本なら、由紀の考えていることが声に出さずとも文字で読めるのに。
 

原作へのリスペクト

環菜と由紀の過去

 
また、物語の肝である環菜と由紀の過去については原作をほぼ忠実に再現していて、原作へのリスペクトをひしひしと感じました。
「そんなことが、こんなトラウマに?」
と思ってしまう人、きっといると思うんですよ。
そういう人を説得するために、もっとわかりやすい過去に塗り替えてしまうのは容易かったと思います。
でも、この作品はきっと、他人にとっては「こんなこと」と思ってしまうようなことが、本人にとって深い傷となっている、という部分が大きなテーマだと思うんです。
その部分は、きちんと映画でも描かれているな、と思いました。
 

原作に登場するけど映画では登場しない人物

 

由紀の母

 
由紀の母は映画では回想シーン以外で出てきません。
原作では由紀の心に暗い影を落とす存在として定期的に登場しますが、秘密を知ったあとに由紀の母に対する嫌悪感を思い出すと、由紀の対応が過剰なんじゃないかと思ってしまったんです。
さらに信じられないのが、由紀のトラウマの元凶である父と今も離婚せずに同居しているし、海外移住するとか言い出すし、理解しがたい存在です。映画ではあのくらいの存在でよかったんじゃないかと思います。
 

由紀と我聞の息子

 
原作の‌由紀に息子がいるのは、我聞と結婚する必然性を持たせるためだったと思うのですが、映画では息子はいません。
でも、そこまで描かれていなかったのでいなくても問題なかった気がします。
 

辻さん

 
原作に登場する、出版社の辻さん。
映画でも序盤に一応辻さんらしき人物は出てくるんですけど名前すら出てこなくて、原作では辻さんと由紀で向かう富山への取材が、映画では見事に由紀と迦葉に置き換えられていて笑いました。笑
原作の辻さん、富山行くときに「やっと参加できる」って喜んでたのに…と思うと、構成上そらそうなるわな!というのはわかっていても不憫でした。笑
  

ゆかり

 
弁護士事務所の受付のゆかり。
それっぽい人はそれっぽい演出で出ていたけど、エピソードとしては出てきませんでした。
 
そして演じているの、エンドロールで気づいたのですが、キタキマユさんでした!
RENTのモーリーン!
 

北川景子さま

 
主演の北川景子さん。

大好きなんだけど、現代劇での演技はあまりうまくないなと前々から思っていて…「ファーストラヴ」もやはりあんまりうまくないなと思ってしまいました…。
 
なぜそう感じるのかずっと考えていたのですが、今日最後に「約束のネバーランド」を観て気づきました。

素人がえらそうに言って申し訳ないのですが、景子ちゃんは現代劇でも、声色と発声を作り込み過ぎなんじゃないかなぁと思います。
「家売るオンナ」や「約束のネバーランド」のように、キャラが立っていたり、ファンタジーであれば作り込んだ発声でいいのですが、現代劇だと、会話から浮いて聞こえるんだなぁと思いながら観ていました。

宝塚がお好きなのも関係しているのかなぁ。
 

衣装

そして、「ファーストラヴ」は全体的に景子さまの衣装が微妙でした…。
 
由紀の服装はオーバーサイズのコートやワイドパンツなど、大きめのものばかりだったのですが、なんでこの衣装!!!って思うものばかりでした。

景子さまは、絶対にタイトなスタイルの方が似合います。
ドクターデスの時は、ぴちっとしたパンツスーツがどれもすごく似合っていたのでなおさらもったいなかったです。
由紀の性格と過去を考えると、体のラインが出るような服装は避けたいのかもしれませんが、それにしてもなんとかならなかったのか……と思ってしまいました。
 
回想の大学時代のウィッグも一発でウィッグと分かりますし、服装も絶妙にダサくて、せっかくの北川景子を無駄遣いしないでくれ。。。と思ってしまいました。

何より、我聞と初めて出会うシーンは、原作と同じく黒いワンピースを着てほしかったです。個展の真ん中にたたずむシーン、とても印象的にわたしの中のイメージにあったので…。

景子さまをイメージしながら読んでいたので、このシーンの黒いワンピースは絶対似合うだろうと思っていたのに、実際は微妙なダサさのブラウンのワンピースになっていてショックでした…。

景子さまが来ている服、全部イエベ秋!みたいな服ばかりだったけれど、秋色じゃないといけないルールでもあったのでしょうか…。それとも役作りなのでしょうか…。
 
あと中村倫也肉切りばさみでしかも飲食店で髪を切るのはやめよう!
 

木村佳乃はすごい

「ドクターデスの遺産」の時も思いましたが、木村佳乃はすごいですね。
2作品とも重要な役を演じられているのですが、憑依っぷりがすごいです。
舞台挨拶でいちばん笑いを取っていたのはおそらく木村佳乃さんで、あのあっけらかんとしたキャラクターからここまで狂った母親を演じられるのは本当にすごいです。
すごいしか言ってない笑

煽りすぎた「なぜ、娘は父を殺さなければならなかったのか?」

原作がどのような経緯で書かれたのかわからないのですが、環菜の父の死の真相がちょっと無理ありすぎるなと思います。苦しい。
きっと、アイデア重視で父の死の過程は後付けなんだろうなと想像します。
今どきのトイレの床、水浸しになってることなんかある?
しかも女子トイレの中まで入っていく父、おかしい。
 
板尾創路が舞台挨拶で
「なぜトイレの床が濡れているのか!」
と床にクレームを入れていましたが笑、そこが苦しいから物語がいまいち釈然としないんだと思います。
 
もしもわたしが裁判員に選ばれて、裁判で

「父が水に濡れた床に滑って胸に包丁が刺さった」と主張されたら信じられる気が正直しませんが、それでも、この状況であれば、推定無罪の法則があるなら環菜は無罪になると思うんです。

「包丁が刺さった父を放置すれば死ぬと分かっていたはず」という未必の故意で争うならわからなくもないのですが…。
 
宣伝の煽りが「なぜ娘は父を殺したのか?」「動機はそちらで探してください」なのに、その死の真相が釈然としないから、いまいちしっくりこないんだろうなぁと改めて思いました。
 
映画では、水が濡れていることを示すために清掃中のボードがトイレの前に立っているそう(気づかなかったけど、舞台挨拶で監督がおっしゃっていた)ですが、清掃中のボードが立っているなら清掃員の方が中にいなかったらおかしいですよね。

トイレには環菜と父しかいませんでした。
おそらく、この突っ込みが入るのわかってて、それでも水が濡れている整合性をとるために、苦肉の策で清掃中のボードを置いたんじゃないかと想像します。
 
原作を読んでも映画を観ても、いまいちすっきりせず、ずっと考えていて思うのですが、この原作は、全体的に、
「このシーンやこの人物はこういう役割で必要なんだろうな、だからちょっと設定に無理が生じてるんだろうな」
と思ってしまう部分が多いなぁと思ってしまいます。
 
役割として必要な人物やシーンがあるのはわかるのですが、役割先行過ぎてつじつまが合っていない気がします。

追記

装丁がかわいくて、迷ったけど買ってしまったパンフレットのキャストインタビューを読みました。

また作品への理解が深まった気がします。

またすべては読破できていないけれど、キャストや監督、関わったみなさんがとても誠実に向き合い、生まれた映画なのだな、と感じました。

愛だなと。思いました。

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