*SAKULIFE*

音楽と桜とミルクティーが好きな社会人が、日々の想い出やお気に入りをしまっておく宝箱。

火曜は燃えない。

黄身、燃ゆ

大雨だった金曜とは打って変わって、日傘必須の月曜日。

今日の夕陽はとても美しかった。

帰りの電車は本を読んでいたから、のんびり各駅停車で帰っていたのだけれど、ふと活字から目を離して向かい側の窓の向こうを見たら、山際にまんまるの太陽がちょこんと乗っていた。
まんまるの太陽は、燃え上がっているようにも見えるし、一晩めんつゆに漬け込んだ黄身みたいな濃厚な艶を放っているようにも見える。
そのまんまるな濃いオレンジから放たれる光のパワーは偉大で、西の空に夕焼け色を広げてる。
ちょうど、電車が川の上を通る橋を渡っているところで、川と山、そして夕空の景色がとてつもなく美しかった。

電車から見る景色って、なんでこんな美しいのだろう?って思う時ない?
きっと高架になっていたりして、視界が広いのだろうけど。

電車の中だとなかなか写真が撮れないのが残念。


f:id:cherryoulife:20210607234457j:image

電車降りてから撮ったけど、陽は落ちてしまったし、空もかなり夜に傾いてしまった。残念…。

火曜は燃えない

火曜は燃えないごみの日……………という話ではなく。

わたしはおそらく“共感覚”だと思う。
共感覚とは、音や文字、数字に色を感じる感覚のことだ。

この感覚は昔からで、それを“共感覚”と呼ぶことを知ったのは成人してからだと思う。

あたりまえのように日常の中に目に入ってくる文字や音に色を感じるので、普段そのことに気を留めることはあまりない。
ただ、例えば「明海」さんという名前の方がいたとしたら、
「あああ~!赤を感じる“明”と、青を感じる“海”が横に並んでいて目がちかちかする~!赤青~!」
ってなるくらい。
(もしこれを読んでくださった方の中に、明海さんがいらっしゃったらごめんなさい。きれいなお名前だと思います!)
(ちなみに明日海りおさんは、間に白を感じる“日”が挟まっているので大丈夫)

今日、ひとりでランチを食べているときに、ぼんやりとテーブルの上に置かれた広告を見ていて、遠目から見た「火傷」の文字が「火曜」に見えた。

その時気づいた。
「火曜って、『火』って書くのにわたしの中では深い青色をしているな」と。

水曜は薄青。
木曜は緑色。
金曜は濃い黄色。
土曜は茶色。
日曜は白。
月曜は薄い黄色。

どれも、漢字のイメージと一致する色ばかりだ。

でも、火曜は濃い青。
火という字は、炎が燃え上がる様子をかたどった象形文字なのに。
なぜだろうと考えてみる。

おそらく、“かようび”とひらがなにしたとき、“か”に感じる色が、青だからだと思う。

あ、は赤。
か、は青。
さ、は薄い黄色。
た、は黄色、もしくは茶色。
な、はピンク。
は、は白にクリームをまぜたような色。
ま、は紫。
や、はバターみたいな色。
ら、はきらきらひかる黄色。
わ、は緑色。

もう何がなんだかという感じだとおもうのだけれども、わたしにはこんな風に感じる。

“か”は青に見える。

だから、火曜は深い青に見える。
火曜の火が火であるということすら、今日まであまり意識していなかったような気すらする。

でも、いったん火曜の火が火、であることに気づいてしまった今は、火曜の火がめらめらと音をたてて燃え始めている。ぱちぱち。ぱちぱち。

“曜”の字にはほんのりと青を感じてしまうので、
「炎の色と青が横に並んでいてなんだかちぐはぐに見える!!!!」
という現象が起き始めている。

きっともう、ほとぼりが冷めるまで、火曜は深い青には見えない。
もしかしたら今日という日を起点に、火曜はもうずっと炎の色になるかもしれない。

火曜、燃ゆ。


『推し、燃ゆ』

推し、燃ゆ [ 宇佐見 りん ]

宇佐見りんさんの『推し、燃ゆ』を読んだ。

“推し”という概念が純文学に認められたのがすごい。

『推し、燃ゆ』というタイトルも、書き出しの「推しが燃えた。」も素晴らしいコピーだと思う。
推しは初っ端から燃えている。
物語は火中からはじまる。

推しを“解釈する”ブログを書いてる女の子の話と聞いて、もうそれはきっと読んでないけどこの小説の中にはわたしがいるんだわ、活字から針千本が飛んできて目に突き刺さって死ぬわと思って意図的に避けていたのだけれど、たまたま昨日、冒頭40ページ(全体の1/3ほど)が無料公開されているのを見つけて、うっかり読んでしまった。

これなら、読み切れるような気がする。
今日会社帰りに本屋さんに寄ってブックカバーを着せてもらって、各駅停車に揺られながら続きを読んだ。

そして、途中でまんまるに燃える夕陽を見た。

電車では読み切れなくて、家に帰ってから少しだけ残った分を読み切った。

意外と、わたしはいなかった。

主人公のあかりは高校生。
読者のわたしはアラサー。
一回りも年下の主人公だから、わたしは近所のおばちゃん目線で読んでしまう。わたしも歳をとったもんである。

「あたし」という一人称の小説なのに、あかりはすこしずつしか読み手に心をひらいてくれない。

徐々にあきらかになっていく、本人の抱える問題と、周りの環境は想像以上に深刻だ。
フィクションとはいえ、わたしは本人の人生の方が気がかりで、途中からは推しどころではなくなってしまった。
彼女は推しを推してる場合ではない。
推しを推してる場合ではないから、推しを推してるんだろうけれども。
日本語としては完全に小泉構文になってしまうが、推す者の意識としてはおそらく正しい。

もっと、まわりに親身になってくれるおとなはいなかったんだろうか、とどうしても思ってしまう。

ひとまず希望はある終わりだったので、結末の先の人生も頑張って生きてほしいなと思った。

かわいいピンクの表紙が印象的な『推し、燃ゆ』。
途中のページにあらわれたしおりのひもが青。

表紙がピンクで、しおりが青。
なんだかしっくりこない。
明海さんや火曜くらいしっくりこない。

でも、あとから気づいた。
青は、あかりの推しのメンバーカラーだ。

よく見ると中表紙(?)の紙や、カバーをはずした本も深い青色。

主人公は“あかり”
タイトルの『推し、燃ゆ』
どちらにも赤を感じる。

表紙カバーはピンク、中身が青で統一されているのは、あかりや燃ゆの暖色と、メンバーカラーの青とのコントラストを表現しているのかなあ、なんて思う。
装丁にまで想いを感じる本だった。これだから本は紙で持っていたくなる。