見上げた空に、大きな羽を広げた蝶のような雲。
羽を大きく広げて、今にも飛んでいきそう。
ミス・バタフライを思い出す。
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わたしは昔、先端恐怖症だった。
先端恐怖症とは、先の尖ったものに恐怖を感じてしまうこと。
子どもの頃は、コンビニの棚から飛び出している銀色の棒(商品の袋に開いている丸い穴を通して陳列するのに使う、あの銀色の棒)が苦手で、両側に棚があるゾーンに行くのは薄目だった記憶がある。
目に刺さりそうな感覚になるのだ。
今は症状は和らいでいて、コンビニにも支障なく入れるようになった。
子どもの頃にこわかったものでも、大人になると徐々に克服できるものがあるのだと思う。
同じように、ピアノを習っていた頃にはきこえていた音階も、今はあまり聞こえなくなった。
これは純粋に耳が錆びついたのだと思う。
今でも音階にきこえる音色はあるものの、恥ずかしながら半音の違いが分からず、全部白鍵できこえる。
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最近、音楽から遠ざかっているのを感じる。
出先で音楽を聴くこともなくなってしまった。
イヤホンを耳につけるのは、Webプレゼンをするときか、リモート会議をするときだけだ。
家で音楽を聴くときも、スマホかCDコンポのスピーカーで鳴らすことが増えて、音楽を“聴き込む”ことがなくなってしまった。
先日、ワンデーフリーパスポートで映画館で映画を5本観た時、
「画面の大きさ以外は家で観るのと大差ないな」
と思っている自分がいるのに気づいた。
我ながら、あまりの違いの分からなさに自分で自分が情けなくなった。
家での映画の視聴環境は日に日に悪化していて、最近は弟から譲り受けた画面バキバキのiPhone8で、iPhoneのスピーカーで音を鳴らして観ている。
iPhoneのスピーカーは言うまでもなく音がよくない。
それと映画館を「大差ない」と言ってしまうのはあまりにも無礼なのは、わたし自身もよく分かっている。
それだけ、音に対するこだわりが薄れている。
昨年、「妖怪人間ベラ」と「LOVE STAGE!!」を観に行ったときは、映画館で音を聴いて、沸々と感動と喜びが沸いたのを思い出す。
沸き上がる感動が、今のわたしには失われている。
日曜日に宝塚に行ったときも、せっかくの生オーケストラというのに、耳から取り込むことのできる情報量が格段に落ちているのを感じた。
以前はもっといろんな音を耳から感じられていた気がする。
生の音を浴びる感動が、今のわたしには失われている。
昨日の配信も、昔ならヘッドホンでテレビに繋いで観ていたであろうところを、スマートフォンの画面で、そのままスピーカーで鳴らして観た。
細やかな音の機微を、今のわたしの耳では聞き取れない気がした。
少し前に、わたしには「共感覚」があるようだと書いた。
文字だけでなく音も同じで、音も色と質感を伴ってきこえる。
でも、昔ほど鮮明に音が色に見えなくなっている気がする。
共感覚も、先端恐怖症と同じように、年を重ねるとともに失われてしまう感覚なのだろうか。
半年ぶりのライブまで、2週間を切った。
今のわたしに、その空間で生まれる音たちを受け止めきれるのか、正直自信がない。
きちんと“きこえる”んだろうか。不安だ。
杞憂に終わったらいいんだけれど。