前の記事の一応続きです。
“人と暮らすこと”の魅力
『僕の姉ちゃん』と『きのう何食べた?』で共通して描かれているのは、“人と暮らすこと”の魅力だと思う。
わたしも一人暮らしを初めてあっという間に1/4年経ったけど、ドラマを観て、誰かと暮らしたいなあ、と思った。
一人暮らしは、”暮らし“と書くけど、暮らしているというか、生活しているだけというか。
平日は、仕事と仕事の隙間の空白を埋める時間と空間、って感じになっている気がする。
実家にいるときから、誰かと共有できるはずの時間をひとりで過ごしていることにとんでもない機会費用の損失を感じて焦燥感にかられていた。
家事もする必要なかったから、家ですることがなくて、無駄な時間をずっと過ごしてた。
せめて、一人暮らしができたなら。
“生活”ができるんじゃないかと思ってた。
こんなもんかぁ。
一人暮らし
青天の霹靂で実現した、30手前にして初の一人暮らし。
ひとりで住んでみて思う。
こんなもんかぁ。
家事を自分でやる必要が出てきたら、もっと時間を使ってやらないといけないことが生まれて、“生活”できるんじゃないかと思ってた。
でも、実家にいたときの10倍くらいの頻度で部屋を掃除し、絶対溜めると思ってた割にはまめに毎食後キュキュッと洗い物をし、3日に1回きっちり洗濯機を回しても、意外と、時間の余白はまだまだ残ってた。
部屋でひとり思う。
退屈だぁぁ。
退屈だぁぁぁぁ~~。
もしくは
暇だぁぁぁぁ~~。
結局、ひとり暮らしをしたところで、退屈なもんは退屈、暇なもんは暇なんだな、ということに気づいてしまった。
こんなもんかぁ。
そしてふと思う。
わたしが「退屈だぁぁ」「暇だぁぁ」と思うとき、
ほかの人なら、「さみしい」と表現するのではないか、と。
そうかぁ。
これが「さみしい」なのかぁ。
そうかぁ。
だから、一人暮らしすると、結婚したくなるんだなぁ。
と、妙に納得した。
理解はしたけど、わたしの中の退屈と暇は、「さみしい」とはなかなかイコールにはならない。
これはわたしの無意識的な意地なんだろうか。
誰かと暮らしたいとは思ってはみるけど、誰かと暮らす自信が実はない。
天ぷら
余談だけど、『昨日何食べた?』で、しろさんに天ぷらのコツを聞かれたお母さんが、
「史朗さんには無理かもしれないわね。天ぷらのコツは、思いきりよ」
って言われるシーンがあって、とても深く心に刻まれた。笑
天ぷらのコツと清水の舞台から飛び降りる、はイコールなんだなぁ。
しろさんも思いきったんだから、わたしも思い切らないといけないのね。
仕事
仕事でも同じことを思う。
こんなもんかぁ。
2箇点目ということで、自分の会社の文化とか風土とか、諦めないといけない欠点とかがわかってきた。
もちろん短所も。
良くも悪くも、こんなもんかぁ。って思ったからこそ、受け入れるべき点、あきらめるべき点は折り合いをつけて仕事していかないとな、と思えるようになった。
こうやって迎合していくのはいいことではないのかもしれないけれど、処世術とも言えるのだと思う。
東京
東京暮らしでも、同じことを思う。
こんなもんかぁ。
生活するだけなら、東京でも大阪でも、あまり変わらない気がする。
もちろん、エンターテイメントへのアクセスが抜群なのは、ひとり身にはとてもありがたい。
毎日
「こんなもんかぁ。」
って言っちゃうと愚痴っぽくなるけど、
「こんなもんかぁ。」
の毎日の積み重ねが“生活”だとも思う。
「こんなもんかぁ。」って言える幸せをきちんと受け止めて、これからも生活していけたらいいな、と思う。