*SAKULIFE*

音楽と桜とミルクティーが好きな社会人が、日々の想い出やお気に入りをしまっておく宝箱。

言葉のバケツ。

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先週月曜日。
見上げれば、真っ青な空を貫く2本の赤いクレーン。

天に届きそうな高さ。
バベルの塔を思い出す。
感じたのは、言葉にできない畏怖。

神様が怒ってクレーンを倒してしまうんじゃないか。
怖くなって足早にその場をあとにした。

数日後、あるアーティストの方が、場所は違えどきっと同じような景色をご覧になっていた。
クレーンを花に見立てていらっしゃるのが素敵で、やはりアーティストの感性は違うなと思った。

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『ブルーピリオド』を6巻まで読んだ。

わたしには絵は描けないけれど、美術館に行くのは好きなのでとても勉強になった。

“描ける”っていいな、と思った。

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『ブルーピリオド』を読んで改めて、わたしは“描く”ではなく“書く”側なんだなと思った。

わたしの“書く”は、そんなに大それた“書く”ではない。
それでも“描く”しかないという気持ちは“書く”に置き換えることで、少しだけ、理解できる気がする。
その少し、はひとつまみで、上澄み、だろうけど。

“書く”ことが好きということを、例えば物語を“書く”ことに使えたなら、もう少し何かあったのかもしれない。
物語でなくとも、もっとうまく使える方法はあったのかもしれない。

でも、わたしは、この“書く”がなんのためにならなくても、“書く”ことをやめられないんだな、と思う。

音楽でも美術館でも映画でも舞台でも、インプットしたものは“ 書く”ことで、言葉でアウトプットしたい。
その“書く”は、他の人にとっては価値のないものかもしれないけれど、わたし自身にとっては意味がある。

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何かをインプットするときのわたしの脳はバケツのようだと思う。

音楽でも美術館でも映画でも舞台でも、何かをインプットするとき、わたしはそのインプット情報を自分の言葉に変換して、頭の中のバケツに注ぎ込む。

終わる頃にはバケツの中身はいつも満杯。
表面張力ギリギリの言葉の水が揺らめいている。
しかも、終わった瞬間から、言葉の水はどんどん蒸発してなくなっていく。
わたしは急ぐ。言葉の水を零さないように慎重に、でも蒸発してしまわないうちに。

そして、わたしは真っ白なメモに向かう。

真っ白なメモの上で、わたしは頭のバケツをひっくり返す。

どばーーーーーーっ。

言葉の水を受けたメモは、言葉でぎっしりと埋まっていく。

バケツの中の水をすべて、メモの上にぶちまけられた時、ようやくわたしのインプットは終わる。

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美術館に行く度、映画を観る度、舞台を観る度に言葉を書いているわたしの姿は、他者からすると異様だと思う。

わたしにとってはアウトプットまで含めてインプットなのだと思う。
そうしないと生きていけない。

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先日、不思議なことが起きた。

それは先週土曜日に訪れたライブでのこと。
この日のライブは、終わった後、頭のバケツの中身を早くメモにぶちまけなければ!!!と思わなかったのだ。

もちろん、頭の中に言葉として残っていることもある。
でもそれはどちらかというとあの日の体験の枝葉で、幹の部分の言葉が全く出てこない。

枝葉だけを書き残すと、体験の本質が失われてしまいそうで、今回は何も書かないことに決めた。

言葉が出てこない代わりに、あの日観た景色がいくつも目に焼き付いている。
きっと、この日の景色は、言葉ではなく、景色として、わたしの脳裏に残り続けるのだと思う。

わたしにも、言葉より記憶の残像を大切にしたくなる瞬間があったのか、と新たな発見だった。